
1962年、北海道出身。写真家。日本写真家協会(JPS)会員。
格闘技の黎明期からいままで撮影を続けている格闘技写真の草分け的人物。UFCやK-1ではオフィシャル・フォトグラファーを務めた。現在もRIZIN、修斗、その他多くの団体で公式カメラマンとして活動中。リングやケージのサイドから決定的な瞬間をとらえる試合撮影はもちろん、スタジオワークにも定評があり、選手や関係者からの信頼も厚い。
著作には『アルティメット』(小学館)、『那須川天心 ALL OR NOTHIN』(小学館)、格闘写真集 FIGHTS』(双葉社)、『那須川天心 フォトブック FLY HIGH』(双葉社)、『初見良昭コレクション忍者刀』(クエスト)など多数。海外での評価も高く、ブラジルやフランスでも写真集をリリース。また「Number Web」にて、ファインダーを通して格闘技を見続けてきた記録を、写真とコラムとして連載中。
もともと私はアントニオ猪木さんのファンでした。
私の地元の室蘭(北海道)では生でプロレスを見る機会が非常に少なかったです。
29歳の時に上京して観戦する機会が増えました。
昔からうすうす気が付いていたことですが、いわゆるガチンコではないということが分かり、
プロレスに対する熱が冷めていたときに、格闘技と出会いました。
共通の知り合いからライターの布施さんを紹介してもらい、「格闘技通信」(ベースボールマガジン社)のカメラマンとして、
リングサイドで撮影をするようになりました。
同誌のデザイナーの方が私の写真を気に入ってくれて、
表紙の撮影や大事な試合の撮影を任されるようになった次第です。
ちょうどK-1が旗揚げする直前のころで、
石井館長も私が撮影した写真を高く評価してくれて、
K-1のオフィシャルの仕事をやるようになりました。
写真を本格的に始めたのは大学生のころからです。
在学中からアルバイトで撮影の仕事をしてました。
私が大切にしていることは目には見えないものを撮影すること。
私が撮影したいのは選手の生きざま。
家族との時間、仕事の時間を削り、減量では身体に大きな負担を強いられ、
選手は様々なことを犠牲にしてリングへ上がる。
僅か15分間(5分3ラウンドの場合)のために費やした日々のことを考えると非常に凝縮された時間である。
選手の想い、思想、哲学、試合の為に費やしたものを私は撮影したい。
それが目に見えないものを撮影するということ。
格闘技の名場面の写真を譲ってほしいという連絡を世界中の方から多数貰っています。
また、テレビ番組の中で使用したいというお話や写真を使って商品化したいというお話しも多くあります。
私が一人ですべての対応をすることは難しく、
このサイトを立ち上げることにより、格闘技に興味をもってもらい、
身近に感じてもらえることはこの上ない喜びです。
2014年12月22日、私はヒクソンから「ナガオ、話がある」と言われた。それは息子のクロン・グレイシーのデビューの前日だった。
彼は真正面から私の目を見ながらこう話し始めた。
「ススム、残念ながら私はプロの試合からは引退してしまった。
明日からはクロンの時代になる。私を撮影したようにクロンを撮影してほしい。
彼がトップに立つまでには少なくとも数年はかかる。だからずっとリングサイドで撮影を続けてほしい」
「才能のあふれる若い格闘家が世の中にはたくさんいる。
君が撮らなくて、誰が彼らの雄姿を撮るのか。お前は撮り続けないといけないんだ」
私がカメラマンとして生涯現役を決めた瞬間だった。(number web より抜粋)
私が格闘技の撮影をするようになって30年以上がたちます。
UFCがスタートしたときには野蛮で暴力的過ぎると批判され、
メジャーなケーブルテレビで放映できなくなり、大会を開催できる州も限られていました。
大会前日に開催中止の判決を受け、選手やスタッフが徹夜で別の場所へ移動したこともありました。
今日のUFCやMMAの繁栄をみるとそれも今では良き思い出です。MMAの歴史を当時から現在も撮り続けている写真家は私しかいません。
私はいま62歳ですが若い頃に比べると体力も集中力も確実に落ちていると思います。
それを補うために専任のパーソナルトレーナーを雇い、
週に一回2時間のトレーニングをもう5年も続けています。全てはより良い写真を撮るため。
これからも才能溢れる若い選手を撮り続けてゆくために、私は走り続けます。